「丁寧に生きる」と去年の後半くらいに、ふと過去を遡ることがありました。
そして最近過去に書いた日記を読み返す機会があり、読むと仕事、家族のことが赤裸々に書かれていました。
日記ブログを書いていますが、日記とブログの赤裸々さの違いがわかりました。
時間に流されて、ただ日々を過ごすだけではなく、しっかりとその場を見つめて、丁寧に生きてみよう。
と、なぜか思うことがあり、そのことについて考えてみたら。
過去の自分の「ええ加減さ」が見えてきました。
別に丁寧にでも、しっかりでも、ちゃんと生きようでも、そこは何でも良いのですが。
「ただ何のとなく日々か流されて行くことはもうやめよう」
「もうやめたい」と思う節が多々出て来たこと。
しっかりと「その時その時代」をお前は見て過ごして来たのか?
早くして自分で起業して、仕事に明け暮れて、まだ小さかった子供達や家族全員との関係か築けてきたのか?
何かあれば「仕事やから、仕事があるから」と仕事の責任にして、「ええ加減」に振舞ってこなかったのか?
ずっと同じ職種の仕事で生きていると、何がマンネリ化しているか?とか、改善すべき点は?
などの意識が薄れてしまいます。
それはワタシだけと感覚かもしれませんが。
しっかりと管理されている方もおられます。
しかし、サラリーマンという立場を捨てた日から、明日、明後日、1週間、一月後の仕事は自分で探し、形にして食べなければなりません。
それ以上に、時間も不規則、不定休な仕事で納期に追われながらする仕事。
身近なものから犠牲にして行く考えや、生活習慣。
これを経験してきました。
家族と旅行へ行ったという思い出も、子供達には無いのかもしれません。
だからなのか、罪滅ぼしなのか?年に一度、九州へ大移動の旅に出ます。
これも一石二鳥的な雑な考えからなのかも知れない。
適当では無いが、計画されている行動では無く、今もそのまま引きずっています。
今思えば、必死に生きてきた自分も理解できます。
今も必死ですから。笑
まとめ
別に丁寧に生きて来なかった訳ではないと思います。
その年齢、世代は世間一般的なことをしようと必死だったように思います。
50という歳を過ぎると、一昨日食べた物や、昨日会った人の名前も思い出せなくなってきます。
過去の記憶も無くなりつつある中で、過去の日記を読み返すと思ったより苦かった。
仕事についての苦しみや家族を見て感じたこと。
奥さんと子供の喧嘩についての自分の意見。
など、振り返りは良いが、感傷に浸ってはいけないこともあるのかも知れません。
そんな雑に生きてきた、流れてきた人生でも記録していれば、軌道修正できることもあるのでしょう。
ここからは「丁寧に生きる」いや「ここからは丁寧に生きたい」と再認識させられた、今日この頃です。
今日も最後まで読んでいただきありがとうございます。
via PressSync