今週ももう週末になってしまいました。今週から現場仕事が始まり、少し不規則な習慣になってきましたが一時の事を思うと、かなりコントロール出来ているのでは無いかと思えるくらいになってきました。
今日もランニング時の記録と出来事、ちょこっとした気付き書いています。
自分棚卸しの続きは結構苦しかったフリーランス後の振り返り
前回のサラリーマン編はこちら
自分棚卸しの前に自分の仕事について振り返ってみた【仕事サラリーマン編】 | Naminori 工房
前回エントリーでは30年ほど、ただ単に遡ってしまいましたが今回も時は1994年、平成6年まで勝手に遡ってしまいます。
『1994』色んな意味で感慨深い年になりました。
なぜ1994年かと申しますと、8年間の会社勤めを経て1994年春にフリーランスとしてデビューした年でございます。
1994年はどんな年であったかと申しますと、記憶に残っているのはサッカーワールドカップアメリカ大会が開催されました。
そして当時はかなり熱をあげてテレビ観戦しておりました、F1レースでブラジル人ドライバーのアイルトン・セナ選手がこの世を去ってしまったのもこの年です。
彼の死は衝撃を受けたのを覚えております。
その他の出来事では
- 関西国際空港が開港
- リレハンメルオリンピックの開催
- オウム真理教による松本サリン事件の発生
- 日本人初の女性宇宙飛行士の向井千秋さんが宇宙へ
などがあったようです。
前置きはさておき、別に会社に不満があったわけでもなく、人間関係で苦労していたわけでもないワタシがなぜ会社を辞め、フリーランスになったのか?
申し訳ありませんがその部分は記憶にないと申しますか、別に強い意志や志があった訳ではなかったように思います。
逆に、何もなかったからそんな大胆な行動に出れたのかもしれません。
今思えば「アホです」「大バカ者です」ね。
ただ、非常に何かに疲れていたという事は覚えています。肉体的にも、精神的にも。不規則な生活、残業は当たり前、休みも少なく「有給休暇って何?」の世界です。
いつも時間に追われているような仕事内容でしたし、風邪でダウンなんて事も許されないような空気が漂う職業です。ですから8年間で病欠は1、2回ほどしかなかったと記憶しています。
あとは盲腸で1週間やむを得ず入院を1回しました。
そんなサラリーマンライフを送っていたので少人数の会社でしたが、辞めると言い出した時には、会社の社長さんも理由が分からず、困惑されておられました。
本人もこれという理由が無かったのですから、当然ですね。
「なんとか一人で生きて行ってみようかな?」とか「そんないい加減なスタート」だったと思います。
こう振り返ってみると「ほんまに自分勝手な人生}を送らせていただいているのではないか?と今更ながら思ってしまいました。
思えば1991年に結婚して、2年後に第一子が誕生。それから1年でサラリーマン生活に別れを告げたのか告げられたのか、自分自身、漠然として突然に行動してしまった事と記憶しております。
仕事を確保していけるのかなどは多少の自信はあったものの一人で孤独に活動していく事に多少の不安もあったと思います。
ですが、バブルが弾けたと言っても今思えばまだ仕事はそれなりにあった時代でございました。
なんとかなるだろうと思って楽観視しておりましたら、建築会社はどんどん倒産するところが出はじめ、銀行は合併を繰り返していくという展開には少し焦ってしまいましたが、この先どうなっていくのだろう?と、なぜか冷静に客観視していた自分がいたのを覚えています。
一旦、この辺でけじめをつけたいという願望があったのでしょうね。この先仕事が有ろうと無かろうと全く気にならないくらい自分をリセットしたい何かがあったのでしょう。そのあたりはうまく説明できませんが・・・。
家族への理解を得るために(確かまだ長男が2歳になる前でした)「頼むから一人で仕事をしていくことをお許しください!母子家庭のようになってしまうかもしれないが、旦那は死んだと思ってなんとかさせてもらえんやろか?」と奥さんに一度だけ頭を下げたのを覚えています。
専門学校の同級生で同業者だった奥さんなので多少は理解してもらえたのでしょうが、この業界を知らない人には理解しがたい世界だと思います。
子供はまだ小さいし、これといった得意先なんて無いに等しいのに、許してくれたのは我が家の七不思議の中に埋もれてしまった出来事となっております。
1994年のまだ明けて間もない頃のお話ですがそれ以降は一度もこの時の心境などは話し合ったことがございません。
きっと何かあれば実家にでも帰ろうと彼女も考えていたのではと思っています。
今ではその大きな反動なのか、完全にワタシにとっての「ドリームキラー」として天敵になっておられます。(笑)
とんでもない見切り発車から始まったフリーランス生活
経験不足な事が多々ある事に翻弄させられた初年度の1年でした。
専門業種の仕事をしていたので、実務において経験していない部分を補うために、ワタシの業界の仕事であれば工事請負をせず、雇われ現場監督でもしながらお金を稼がせていただこうと思い、ワタシは店舗の内装工事を主体に生きてきましたが、建築現場の監督をさせて頂いたりして生計を立てておりました。
請負で失敗してしまうと大きな負債を抱えてしまうので、苦肉の策で少しの期間ではありましたが少し畑違いの仕事などして知識を増やしていきました。
その間にたくさんの新しい職人さん、業者さんと出会い一緒に仕事をしていただく方々と出会う事ができました。このことは今でもワタシの財産となっております。
最初は辞めた会社の得意先や下請けさんと付き合う事に少し後ろめたい気持ちもありましたし、「いや、そんな甘い事を言っていてはこの先たべていけるのか?」という葛藤などもあり苦労しました。
そんなこんなで売り上げも少ない1年目ではございましたが。サラリーマン時代の給料以上は稼げていたので、取り敢えずは良しと考えておりました。
そうして1994年も暮れに差し掛かったころに現場で知り合った方から神戸で小さな飲食店を図面から工事までやってくれませんか?との依頼があり年末に打ち合わせをして、新年明けてからまたお会いしましょうと約束し、別れて新年明けて20日くらいに打ち合わせ予定でしたが、あの阪神大震災が起きてしまいました。その方とはそれ依頼連絡が取れず、その店も多分、壊れてしまったのではないでしょうか。
そんな1995年、2年目の始まりだったことを鮮明に記憶しております。
あれから20年。人生の浮き沈みも経験しました。まだまだ振り返ってしまいそうなのでこの辺りで止めにしますが、たくさんの経験をさせていただきました。
一人で生きていくという事は、自分のモチベーションを如何に高め続けていけるか?という事が重要であるかという事と、難しい事であるかを今更ながら考えさせられます。
今のような情報過多な時代だったなら今のワタシは存在していなかったと思います。
元々不器用で思慮の浅い性格なワタクシです。迷いで本質がブレてしまって一歩も進めなかったかもしれません。
今も金銭的には決して幸せと言えるレベルではありませんし、これまでにはたくさん未収の物件などもありました。
多分、高級車かスーパーカーが買えるくらいの負債があった時期もありました。
これを振り返ると紆余曲折、泣いてしまいそうなので止めておきます。
これからはどんな事が待ち受けているかはわからないですが、熱く受け止めていきたいと思います。
2015年5月21日,22日,23日(木)(金)(土)今日のモモガイテ
暫くはこんな感じの真っ暗画像続きそうですが、21日(木)は夜は涼しい中走れました。三日月が綺麗でしたがiPhoneでは撮るの難しいですね。
22日(金)も仕事から帰って直ぐにランニングに出かけました。夜はまだ涼しさを感じられてます。汗はいっぱいかきますが気持ち良く走れています。
今日は⒈日曇りで少し蒸し暑い1日でしたが、帰宅後ランニングできました。
2015年5月23日(土) 伊勢国府の浜の波
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今日の夕方の伊勢国府の浜はヒザ、セットモモの波でした。和歌山磯ノ浦はフラットな1日でした。
台風の影響も無くなり、しばらく続いていた波も消えてしまいました。
今日のまとめと気付き
今朝は3.15kmラン。時間16分27秒 平均ペース 05:14/km 消費カロリー 220cal
夜のランニングは少し慣れてきましたが、明るい時間帯の方がずっと走りやすいです。乱視がどんどん進行中なので困っております。
今日も振り返っただけのエントリーになってしまいましたが、一度、自分年表でも作ってやろうかと思うくらい、記憶が蘇りました。
普段は全く過去について考えたりしませんが、自分の考え方の移り変わりが少し覗けたりしてたまにはありかもしれませんね。
懲りずにまた振り返りたいと思います。
今日も最後までご愛読いただきありがとうございます。
1日10分も走れなかった私がフルマラソンで3時間を切るためにしたこと
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